本屋を巡る物語
ワード・オン・ザ・ウォーター
「水の上の言葉」という名前の、運河に浮かぶ書店がある。毛細血管のようにロンドンを流れるリージェント運河が、大規模な再開発を経て、今や、文化施設や芸術大学、ショッピングモールを包括するトレンド発信地区となったキングスクロスに出会うあたりだ。晴れた日、1920年製のカナルボートは、屋根いっぱいに本棚を並べ、現代小説、ポエトリー、クラシック、芸術、歴史、心理学、ロンドンを舞台にした本のコレクションなど、約3000冊の書籍が道ゆく人を誘う。
「ワード・オン・ザ・ウォーター」の誕生は2010年頃。ヨークシャー出身で路上古本販売を営んでいたジョン・プリヴェット氏と、オックスフォード大卒で、当時ソーシャルワーカーとしてドラッグ中毒患者のケアに当たっていたパディ・スクリーチ氏が出会い、お互い重度の活字中毒であることから意気投合。運河書店のアイディアは、二人の愛読書であり、イギリスからアメリカに移民した家族がボートで生活する様を描いたビリー・ブライアントの「Children of Ol 'Man River」から生まれたという。
[caption id="attachment_2981" align="aligncenter" width="960"] ボートで読書を楽しむプリヴェット氏と愛犬のスター[/caption]しかし、その船出は順風満帆ではなかった。イギリスの運河停泊法は、2週間以上同じ場所に停泊することを禁じているため、ボートは度々移動せざるを得ず、それがビジネスを苦しめた。「どこにいるか分からない水上書店をSNSで探し当てて来店するのは、客にとっても楽しいと思ったが、意外に怒る人も多くて参った」とプリヴェット氏。冬季のビジネスの冷え込み、運河協会からの退去通知、違法占拠、さらにはボート沈没の危機と、様々な問題ににさらされながら、一方で水上書店はじわじわと人気を高めていく。永久停泊を求める嘆願書に、ロンドンを拠点とする作家や編集者たちをはじめとする多くのサポーターからの署名が集まり、ついに現在の停泊場所への係留が許可されることとなった。
「この本屋の魅力は、時代遅れなことだ。オンラインでも本は買えるが、実際に本屋に行けば思いもよらない本に出会える喜びがある。汽車が生まれる前、運搬用に作られた運河も、デジタルではない本も、本好き同士が集まるこのボートも、時代遅れだからこそ愛される」。
99歳になる古ぼけたボートとそこに詰め込まれたたくさんの言葉を求めて、多くの読書家たちが今日も水に浮かぶ書店を訪れる。その一人一人に、プリヴェット氏は「Welcome on board! (乗船ありがとう)」と声をかける。
水辺のブッダ
ベストセラー『あん』著者新時代の感動長篇
多摩川の河川敷で、仲間のホームレスたちと共に生活する望太。一度は死を選びながらも、彼らに救われ、やるせない思いを抱えながら生きている。
取材・写真/平川さやか