古寺を巡る
北鎌倉の円覚寺を巡る
禅は、人間に本来そなわる仏心を坐禅によって自覚することを目的とする宗旨である。とくに臨済禅は公案という、祖師の言行などに由来する問題を坐禅を通じて解くことを修行の眼目とする。
では、このような難解な禅が、なぜ時宗をはじめとする武家人に迎えられたかといえば、自力本願の厳しい修行が武士の気風に合っていたからともいえるが、京に対抗する新しい都市づくりのために中国からの文化を積極的に取り入れる必要に迫られていたことも大きいだろう。実際に、禅とともにもたらされた宋風の文化は、鎌倉を中心に広がっていったのである。
開基の時宗と開山の無学を立て続けに失った円覚寺であったが、時宗の子の貞時、孫の高時が庇護し、鎌倉末期には寺観が整えられて壮観を呈した。鎌倉幕府が滅亡したのちも、住持に迎えられた夢窓疎石の尽力によって、皇室と足利氏双方からの帰依を受け、鎌倉五山の第2位として室町時代の禅文化の中心であり続けた。
室町幕府が滅ぶと、強力な外護者を失った円覚寺は寺勢が衰え、火災による罹災などで宗風が沈滞した時期もあった。しかし、江戸後期の第189世誠拙周樗による復興や、明治時代に初代管長となった今北洪川とその弟子釈宗演による僧堂の再興、一般への禅の普及などにより、現在の円覚寺の礎が築かれた。
円覚寺では塔頭は谷戸の地形に沿って配置されており、樹木に隠れるような佇(たたず)まいが禅刹らしい趣を醸し出している。俗世と隔絶された禅堂では雲水が峻厳な禅風のもとで修行を行ない、一般には暁天坐禅会や夏期講座など、坐禅会や禅の文化に触れる行事が広く催されている。
古事記
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文/小学館ウイークリーブック 「古寺を巡る35」 写真/原田 寛 編集/矢野 文子